厨房の床を走ったあの日の絶望を忘れない
私がこの飲食業界に足を踏み入れてまだ数ヶ月だった頃の出来事です。憧れのレストランで働き始めたばかりで、毎日が新鮮で、少しでも早く仕事を覚えようと必死でした。その日はランチタイムのピークが過ぎ、片付けをしながらディナーの準備を進めている、少しだけ落ち着きを取り戻した時間帯でした。先輩と談笑しながら床を掃いていた、その瞬間です。調理台の下から、黒く艶のある物体が素早く這い出してきました。ゴキブリです。それも、家庭ではまず見かけることのないような大きな個体でした。私の動きが止まったのを察した先輩が、何事かと視線を落とし、同じく絶句しました。その後の先輩の動きは迅速でした。静かに、しかし確実な足取りで殺虫スプレーを手に取り、一瞬の隙を突いて仕留めました。そして、何事もなかったかのように私に言いました。「見なかったことにしろ。そして、見つけたら静かに処理しろ。これがこの仕事の一部だ」と。私はその言葉にショックを受けました。憧れていた華やかな世界の裏側を垣間見た気がしたのです。その日から、私の厨房での視線は変わりました。食材や調理器具だけでなく、床の隅や壁の隙間、機材の裏側にも常に注意を払うようになりました。日々の清掃が、単なる美化作業ではなく、あの黒い侵入者との見えない戦争なのだと理解したのです。あの日の絶望感と、先輩の冷静な対応は今でも鮮明に覚えています。飲食店の衛生管理とは、お客様に見える部分を綺麗にすることだけではない。見えない場所で、いかに徹底した闘いを続けられるかにかかっているのだと、身をもって学んだ貴重な経験でした。