お客様の目の前にゴキブリが出た時
それは、ある夏の日のディナータイム、店内が最も賑わう時間帯に起こりました。ホールスタッフとして働いていた私は、お客様のテーブルに料理を運んでいました。お客様が笑顔で料理を受け取ってくださり、私も笑顔でその場を去ろうとした、その時です。テーブルの近くの壁を、黒い影が横切りました。一瞬、時間が止まったように感じました。お客様の一人が「あっ」と小さな声を上げ、その視線の先を追った全員が、それがゴキブリであることを認識しました。店内の賑わいが嘘のように静まり返り、全ての視線がその一点に集中します。私の頭の中は真っ白になり、冷や汗が背中を伝いました。どうすればいいのか、何をすべきなのか。パニックに陥りそうな思考を必死で引き止め、まずは謝罪しなければと口を開きかけましたが、言葉になりません。その時、店長が冷静な、しかし有無を言わせぬ声で私を呼び、すぐさまそのお客様のテーブルへと向かいました。店長は深く頭を下げて謝罪し、すぐにお席の変更と、その日のお食事代は不要であることを伝えました。その毅然とした対応に、他のお客様の動揺も少しずつ収まっていきました。私はその後、バックヤードで震えが止まりませんでした。たった一匹のゴキブリが、店の雰囲気、お客様の楽しい食事の時間、そして私たちの信頼を、一瞬で破壊していく様を目の当たりにしたのです。この出来事以降、店のスタッフ全員の衛生管理に対する意識は劇的に変わりました。営業前後の清掃はもちろん、営業中の巡回でも、床の隅や壁に常に目を光らせるようになりました。あの日の地獄のような空気と、お客様の失望に満ちた表情は、一生忘れることができないでしょう。それは、私たち飲食業に携わる者への、最も厳しい教訓でした。